「おい、本当に大丈夫か?」
雲の流れる速さは遅くても、時の経つのは早いもの…色々な考えを頭にめぐらしていたサンジだったが、男の心配そうな声で我に返る。
「あ、は…」
「熱あるんじゃねェ?」
男はサンジの声を最後まで聞かずにやさしく前髪をあげると、日に焼けたたくましい右手をサンジの額に、左手を自分の額にあててしばし目をつむった。
「あの……」
「ん〜…なさそうでありそうだな。お前、平熱めちゃくちゃ低いだろ?」
今度はニッカと大袈裟に笑う。それがなぜかツボにはまり、サンジは苦笑いを浮かべた。
「笑える元気があるなら、大丈夫だな。」
さっきまでとはうって変わった、大人びた微笑み…男のその一瞬の表情に誰かの面影が重なって、サンジの鼓動は高鳴った。その面影が夢の中のあの人なのか、心の中のあの人なのか…それはこの時のサンジにしか分からない。
「そうだ、俺、あんたに水持ってきたんだったな…忘れてたぜ。」
男はそう言うと、洒落たグラスにストローをさしてサンジに手渡す。受け取ったグラスはちょうどいい冷たさで心地よく、サンジはこれをいつまでも持っていたいと思った。
「あ、ちゃんとレモンはつぶすんだぞ?」
男はこう言いながら、枕元に腰をおろす。俺は無言でうなずいて、水面に浮いていたレモンの輪切りをストローで突いた。レモンの粒が水中で華麗に舞う…それがもっと見たくて熱心にレモンを潰していたら、男に「それくらいにしとけ」と、まるで母親みたいにたしなめられた。
「あんた、名前は?」
ストローからの冷たい水が喉を潤している時、男が少し重い沈黙をほぐすように口を開いた。その時初めて、俺は男の容姿を改めて見つめる…
褐色の肌、黄土色の瞳、金髪…くせ毛なのか、ライオンみたいに逆立ったショートに、つり上がった細目。こうして見ていると、雰囲気以外にもどことなくだけど、あいつと…ゾロとかぶるところがある。
あぁ、だから、俺はこんなに緊張しているのか・・・?
「おい?」
不意に俺の視界が男で埋めつくされたものだから、つい後ろにさがってしまった。がらにも無く心臓がバクバク言ってやがる…俺は男の機嫌を損ねたと思って、ぱたぱたと手をふりながら弁解した。
「あ、ごめんなさい、少しビックリして…」
「こっちこそ、覗き込んだりして、悪かったよ。」
申し訳なさそうな笑顔浮かべて、恥ずかしそうに頭を掻く…もしかしたら、こいつはゾロかもしれないという淡い期待が打ち砕かれる。他人のそら似が、こんなにも心に突き刺さるなんて知らなかった。
俺は辛い思いをふり落とすように頭を振ると、今の俺にできる、精一杯の微笑みを浮かべた。
「俺の名前はサンジです。」
「俺はルキ、今は我流の薬師をやってる。」
子供のような、無邪気な微笑み。ゾロもこんな風に、俺を許してくれないかな…
できるなら、船員皆が、無責任すぎる俺を笑顔で許してくれないかな・・・
二人はお互いの事について、少し語った。サンジの口調もいつの間にか元通りになり、ルキを『ルキ』として見れるようにもなった。
ルキは街のはずれに診療所を開いていて、この島で唯一の医者だ。元は精神科医だったらしいが、こんな陽気な島に精神科医はもとより医者など特に必要あるわけがなく、今では薬師としての腕を磨くのが専らとなっている。
「へぇ、あんた、記憶を操る薬を作ってんのか。」
「そんなもんかな。嫌なことをいつまでも覚えてて、その過去に縛られて苦しんでいる人がいてね…その人を救いたいと思って、作ってる。まだ試作段階なんだが、イイ感じのがこの間完成したんだ。」
そういって、ルキはおもむろにズボンのポケットから小瓶を取り出した。その中にはとろみがかった液体が入っていて、光の具合によって金色にも銀色にも見える。
「すごいな、これ…」
「だろ?」
照れながらも、誇らしげに笑うルキ。サンジは小瓶を手にとって、まじまじと眺めた。
ふとある考えが、彼の頭をよぎる…
「なぁ、ルキ。」
「何だ?」
「この薬、俺にくれないか…?」
ルキの顔色が豹変する。
「そんな軽々しく言うもんじゃない、薬は一歩間違えたら自分を殺すことになるんだぜ?特にこれは、頭に携わるもんだから…はい、そうですかといって渡せない。」
ルキの言葉に、サンジは躍起になって答えた。
「言っただろ?俺も、過去にとらわれて苦しんでるんだ。これ飲んで、成功したらお前の想い人にも抵抗なく飲ませられるだろ?」
「確かにそうだが、自分さえも見失うかもしれないんだぜ…?」
「覚悟は、できてるさ。」
サンジの、真剣そのものの顔を見てルキは軽く溜め息をつく。
「今のお前に、何言っても聞いてもらえそうになさそうだし…分かった。半分やるよ。」
「ありがとう、恩にきる。」
「とか綺麗ごと言ったけど実際、さっきのサンジの話聞いてて…勧めてみようかと心の隅っこで葛藤してたんだけどな。」
顔を見合わせて、同時に苦笑する。サンジが小瓶を開けると同時に、ルキが薬の説明をし始めた。
「さっきも言ったけど、この薬はまだ試作段階で、俺にも何が起こるか分からない…サンジが忘れたいところだけ消えるかもしれないし、赤ん坊のように何もかも消えてしまうかもしれない。」
「見失ってたら、俺の名前と、お前の世話係だってのを教えてくれたらいいさ。」
「お前の本当の過去は…?」
ルキの言葉に、サンジの表情が陰る。
「俺がその断片を思い出すまで、告げなくっていいさ。せめて、この腕が完治するまでは…お前の傍にいさせてくれ。」
涙目のサンジに、ルキは全てを承知して無言でうなずいた。
これで、腕の治療に専念できる。
これで、もう一度俺がやりなおせる。
みなが皆、嫌な思い出じゃないけれど…
俺には、荷が重過ぎた・・・
気になることはたくさんあるけれど…
今だけは、そっとしておいてくれ・・・
ルキには悪いが、記憶が無くなるのは好都合だ。一度『記憶喪失』ってやつも経験してみたかったしな。ルキは半分って言ったけど、全部飲んでやるさ…
でも、この息苦しくなる程の胸の締めつけは何だろう?
まぁいいや、どうせそんな些細なことももうすぐ忘れてしまうんだから。
「サヨナラ、みんな。サヨナラ…最愛の人・・・」
俺は小瓶の薬を、一気に飲み干した。
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